だれも、周縁に追いやられることのない社会へ

だれも、周縁に追いやられることのない社会へ

代表の樋口が、継青堂を立ち上げるまで

大学3年生のとき、私はパレスチナを訪れました。この経験が、いまの私のすべての出発点になっています。

返す言葉を、見つけられなかった

はじめに立ったのは、東エルサレムのシルワンという地区でした。土地をめぐる争いのなかで、パレスチナの人たちの家屋が次々と取り壊されていました。目の前には、崩された家の跡。白い石とコンクリートの塊が積み重なり、そのあいだから錆びた鉄筋がねじれて突き出していました。

2012年、エルサレムのシルワン地区にて

「苦労して建てた家が、数時間のうちに壊されてしまう」——現地の案内人は、そう教えてくれました。

その後に訪れたベツレヘムの難民キャンプは、半世紀以上にわたって人々が暮らす、ひとつの町でした。しばらく歩くと、青年たちの大きな肖像が、コンクリートの壁の至る所に描かれていることに気づきました。その多くは、紛争で命を落とした若者たちだといいます。

「この子たちのなかには、『いつか、このお兄ちゃんのようになる』と口にする子もいます」

——私は、返す言葉を見つけられませんでした。

目の前の一人を助けても、また次の誰かが

はっきりした答えを出せないまま、私は難民支援の道へ進みました。けれど、そこで見えてきたのは、想像とは違う現実でした。

その日の食べ物を工面するなど、できることはありました。でも、同じように追い詰められた人が、次から次へと同じ扉を叩いてくる。目の前の一人を支えることはできても、その人を追いやった仕組みそのものが変わらなければ、また次の誰かが同じ場所へ追いやられていく。

ならば、根本にある制度を変えるしかない。私は支援の現場を離れ、政治に働きかけるアドボカシーへと軸足を移しました。

挫折の先で見つけた、確かな拠り所

2021年、難民として逃れてきた人さえ送り返しかねない入管法の改正案が、成立を目前にしていました。私はNPOや弁護士とネットワークを立ち上げ、記者会見や陳情を重ねました。修正協議では、求めた項目が大筋で合意されるところまで漕ぎ着けた——はずでした。
しかし2023年、修正合意はなかったことにされ、元のままの法案があっさりと可決されました。その無力感は、今も残っています。
それでも、確かな手応えがありました。「国際人権」という拠り所です。ふだんは主張の異なるNGOや弁護士が一つのネットワークに集えたこと。複数の国連機関が意見書を出してくれたこと。そのどれもが、「国際人権」という共通のものさしを持ち合わせていました。誰かの善意でも、その場の多数決でもない。立場の違う人が同じ場所に立つための拠り所が、確かにあるのだと知りました。

かみ合わなかった、30分

同じころ、もう一つの変化を感じていました。誰もが知る大企業から、私たちNGOへ問い合わせが届くようになったのです。資源も、影響力も、人を動かす力もある企業は、社会を変える担い手になりうるのではないか。そう思いはじめていました。

ある日、大手企業のCSR部門の責任者が、数名を連れて事務所を訪ねてきました。けれど交わされたのは、当たり障りのない話が30分ほど。責任者は私たちと向かい合う様子を写真に収め、満足げに帰っていきました。

しばらくして、連絡が来ました。「あの写真を、当社のCSRレポートに掲載しました」。

社会に良いことをしている——その姿を示すために、私たちは使われたのだと、そのとき気づきました。

ビジネスの内側から、変える

このせっかくの機運を、うわべで終わらせず、本質的な変化につなげられないだろうか。けれど「NGO」という立場のままでは、企業との距離はなかなか縮まらない。それなら、NGOの志を持った「企業」として、内側から関わればいい。そう思い至り、2022年、私はコンサルティングの世界へ飛び込みました。

企業のサステナビリティや人権デューデリジェンスに携わるなかで、パレスチナの記憶とつながった瞬間があります。

あの、家屋を壊したショベルカーやブルドーザー。あれを造った会社も、どこかにあるはずだ、ということ。製品それ自体に悪意はありません。でも、造られる過程や届いた先で、誰かの暮らしや命が奪われることがある。そして企業のなかにも、このことに本気で向き合いながら、「売上にならない」という論理に阻まれて孤立している人たちがいました。

交わらないものを、つなぐ

現代の社会課題は、複雑に絡み合っています。一つの組織が、一つのセクターが正しく動くだけでは、根本的な解決には届きません。けれど、立場が違えば、見えている景色も、使う言葉も違う。あの30分のように、放っておいて立場の違う組織が自然に手を取り合うことはありません。だからこそ、あいだに立ってつなぐ誰かが必要です。

私は、NGOとビジネスの両方の世界で社会課題に向き合ってきました。どちらの言葉も、いくらかわかります。だからこそ、その二つのあいだに立てるのではないか。

2024年、私は継青堂を立ち上げました。

だれも、周縁に追いやられることのない社会へ

学びたいことを学び、住む場所を選び、家族と暮らす。その自由が、私にはあたりまえにあります。でも、あの日、自由が奪われた「社会の周縁」があることを、この目で見ました。

目の前の一人に手を差し伸べるだけでなく、人を周縁へと追いやる、その仕組みそのものを変えていくこと。だれも社会の中心から外されることのない社会へ——その変化の触媒でありたいと思っています。

あの日、返す言葉を見つけられなかった問いに、私はいま、仕事のかたちで応えようとしているのかもしれません。

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